「境・桜堤」地名のひみつ

投稿日: 2025-10-22 最終更新日: 2025-10-22

境・桜堤の誕生

中央線に山中踏切や西原踏切があったのを覚えていますか。中央線の高架化にともないなくなりました。西原踏切のあったあたりにはぽっぽ公園ができ中央線で使われていたレールや踏切、信号機などが展示されています。この踏切名に付けられていた山中や西原はかつてここで使われていた地名です。境・桜堤になるまでは、北本村、水吐、寺前、山野、山中、西原、上水北、上水端、上水南という地名がありました。今では地名としては使われていませんが上水南公園や境山野緑地などの名称に残っています。

いつの間に境や桜堤になったのか

武蔵野村は関東大震災後から人口が増え始め、小字名に勝手な俗称名が用いられるようになったり、また番地は大字(境・関前・吉祥寺・西窪)に付けられていたため番地が大きくなり規則性もなにも無くなってしまいました。そこで1954年武蔵野市は町名整理を始めることにしました。28町94丁目の第1次案から8年の年月をかけ紆余曲折しながら第八次案で13町51丁目に落ち着きました。この間今の桜堤は、鶯町・美園町→上水町・桜台→新橋・桜台→桜堤と変遷し、境は、桜木町・境町・美園町→境町・西原町→春日町・境町・西原町という案を経て境となりました。これが境・桜堤の誕生です。

では、その前はどうだったのか

さらに遡った資料(1678年の検地帳など)を調べると、上に出てきた地名に似た地名、同形異音、何か関係がありそうな地名などを見ることができます。しかしながら、情報は文字のみで図面もなく地名の位置も分かりません。それに読み仮名がないので読み方も分かりません。謎だらけです。結局、調べれば調べるほど謎が増えるばかりです。 町名整理に立ち戻ると、資料(武蔵野市百年史)からは8年という年月をかけて、行政・議会・市民の参加で決められていったように読めます。どこかの偉い人が決めるのではなくて武蔵野市らしいじゃないですか、と武蔵野方式という言葉がある令和の市民は思うのだった。

おまけ1:町名整理最終案にはふりがながあり「さくらつつみ」となっています。いつの間に「づつみ」に?!

おまけ2:ちょうど桜台→桜堤となる時期に桜堤団地の入居が始まり、日本住宅公団から桜堤にするよう陳情があったと季刊むさしの45号に書かれています。事業者参加もあったのかな。

◆参考文献:武蔵野市百年史記述編II、武蔵野市百年史資料編II上、季刊むさしのナンバー45、武蔵野ふるさと歴史館企画展図録「武蔵野の地名」 ✑武蔵野市百年史はコミセンでも読むことができます。

1939年発行の地図、○○商店西原店、境5丁目のNTT番号札

(A)1939年発行の地図、西原や上水南の地名が読み取れる。武蔵野ふるさと歴史館は明治乳業牧場で、西部コミセンは上水南の南の字のあたり。発行者はサンヴァリエ桜堤自治会長を務めた笠原堅資氏の父笠原葆氏。(B)境5丁目にあった「〇〇商店西原店」の看板と(C)境5丁目のNTT番号札「山中支29右3」、古い地名と関係があるかは確認できていない。

昔の地名探し

武蔵野市は転入転出が多かったり開発が隅々まで行き渡ってなかなか昔の地名をまちなかで見つけることができませんでした。上の記事中でも書きました公園などにはありますが。一つ見つけたのは鉄道のガードと架道橋でした。どちらも古い地名がついた踏切(山中・西原)があった場所でした。 昔の地名が残るガードと架道橋

もうちょっと地図

1939年の地図「武蔵野町三鷹村番地入明細図」は、たましん地域文化財団/デジタルアーカイブからオンラインで見ることができます。 武蔵境駅から伸びる赤い線は北向きに西武バス(田無行き)南向きに武蔵野バス(調布行き)、今の市民会館の場所に第二小學校が読み取れます。漢字は右から読んでアラビア数字は左から読むようです。アラビア語みたいですね。 たましんさんの広い地図を見ると、境浄水場までの線路や品川用水、合併前の中島飛行機武蔵野工場(製作所)なども見られます。後に合併する多摩製作所は1941にできるのでまだ載って無いです。玉川上水が載ってて一級河川の仙川が載ってないのは何でだろう?

西部コミュニティセンター

西部コミュニティセンター、略して「西部コミセン」。コミセンは武蔵野市民みんなの施設、どなたでも使うことができます。地域でコミュニティ活動する場所、情報を発信する場所、人と人がつながる場所です。いろんな機能を持った部屋があります。しかも、なんとコミセンの使用料は無料なんです。ときどき、お祭りなどのイベントも開催しています。運営に参加することもできます。